鼻フック職人の午後
鼻フック職人の朝は遅い。だいたい昼頃起き出して、まずウガイをしてから湯を沸かす。湯が沸くと一杯の紅茶かコーヒーをいれ、それを飲みながら、メールのチェックなどをする。
そのあと、ご飯に目玉焼き、インスタント味噌汁などの簡単な食事を終えると、作業部屋の掃除だ。といっても、窓を開けて空気を入れかえ、軽く掃除機をかけたり、ホコリをはらったりするくらいなのだが。これは職人としての、毎日の儀式のようなものかもしれない。
食欲も満たされ、環境も整った所で、クライアントとの待ち合わせがあれば、それに対処する。平たく言えば、鼻フックに興味のある女性に、その手ほどきをするということだ。
「初めてなので、優しくして下さい…」
「もちろん分かっていますよ、優しくね」
鼻フック職人はまた、縄で女性を縛ることにも通じているので、するすると女性を後ろ手に縛り上げ、その鼻に、まず黒い鼻フックを手ぎわよく掛けていく。女性は恥ずかしさのあまり目を閉じ、口をゆがめて、その雰囲気に耐えている。
「どうでしょう、痛くありませんか?」
「は、はい…。大丈夫です…、けど…」
「とっても恥ずかしい顔になっちゃいましたね。ほらっ」
鼻フック職人は、後ろ手に縛られている女性の前に鏡を置いて、それを見るように女性に促す。もちろん女性は拒否するフリをするのだが、
「今しか見れない顔ですよ、よく見ておかないと」
そう言うと、そっと目を開け、やがて鏡の中の自分の顔に引き込まれるのだ。さらに女性のリクエストがあれば、別の色や可愛いタイプの鼻フックを試してあげたりもする。そうやってジワジワと鼻フック調教の快楽を教えることも、鼻フック職人の仕事であり、また当然、ワクワクする時間でもあった。
そしてもし、クライアントとの約束がない場合には、鼻フック職人は何をするのだろうか?天気が良ければ、そして、気持ちが乗れば、材料の買い出しに行く。鼻フック職人の行きつけの店は、渋谷に2軒、新宿に1軒、そして、吉祥寺にもある。それらの店の売り場を回って、新しい材料を仕入れてくるのだ。売り場を見ているうちに、別の良い材料を見つける場合もあるから、この作業は欠かす事ができない。買い出しから帰ってくると、疲れて昼寝をしてしまう。起きるともう夕方だ。鼻フック職人は自炊が多いので、今度は食材の買い出しに出かける。と同時に、駅前の何軒かの雑貨屋、書店などを回りつつ、ここでも鼻フックの素材を探したり、デザインのアイデアを求めたりする。
そして夕食。お酒を飲む事もある。するとまた眠くなって寝る。
では、鼻フック職人は、いつ鼻フックを製作しているのだろう。それは長い間、最大の謎であった。
しかしここで秘密を打ち明けてしまえば、鼻フック職人の机の左側には、鼻フックの材料、製作用の道具、新デザインを思いついた時に書きとめるノートやカラーペン、デザインや色調の参考にするファッション雑誌などが常に置いてある。つまり、鼻フック職人は、思いついた時にすぐ、頭の中の鼻フックを現実の物として作り出しているのだ。これは何も不思議な事ではない。例えば作曲家なら、ひらめいたフレーズをすぐに確認できるように、ピアノかギター、あるいは録音機、五線譜などを、いつも身近なところに用意しているだろう。
鼻フック職人とは、つまり、そのような人物なのである。
〜終〜
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