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木曜荘奇譚

第一章


 塀越しにチェンバロの音色が聞こえる。

 省線御徒町の駅を降りて、私立探偵加賀美が宮園の屋敷に張り込むようになってから、はや二週間が経とうとしていた。宮園は、帝大時代の加賀美の同級生である。加賀美は文科、宮園は法科、と、科は違ったが、在学中に編集した文芸同人誌の同人として、互いを知るようになった。そして、卒業後数十年経った今でも連絡を取り合う仲なのである。もっとも、加賀美がしがない私立探偵業に口を糊しているのに対し、今や宮園は法科の教授であり、学会の第一人者として活躍している、という違いはあった。

 ある日、宮園から連絡をもらった加賀美は、本郷の宮園の研究室を訪ねた。大きい机に座っていた宮園は、
「早速だが、これを見てくれ」
と、茶封筒を差し出した。中に写真が入っている。それを一瞥した加賀美は言った。
「これは、最近流行の、縛り絵のブロマイドじゃないか」
 そこにある数枚の写真は、いわゆるエログロ写真と言われるもので、通なマニアにはよく知られている物だった。しかし、ヌード写真ならともかく、縛られたものは、まだ加賀美も目にしたことはなかった。
「やっぱり、これも神田で?」
 加賀美は尋ねた。
「そうだったら良いのだが、なぜか私の本に挟まっていたんだよ」
 宮園は苦笑いしながら言った。しかも、その女は、妻の美津子なんだ。目隠しされてはいるが、上唇の三つのホクロ、間違えようがない、と、宮園は言った。
 音大出の、一回りも下の可愛い妻を娶ったと始終自慢してくる宮園の言葉に、間違いはなさそうに思われた。

「じゃあ、センセイは、その美津子さん、つまり、宮園教授の奥様が、マゾヒスト、とおっしゃるんですのね」
 事務所に帰った加賀美は、助手のミドリと話をしていた。
「普通のヌード写真ならともかく、こういうシーンは、やはり……、その気がないと、できないと思うんだよ。ミドリ君ならどうかね?」
 わ、私はちょっと……、と、その縛り絵のブロマイドを見ながら、ミドリはうろたえて言った。吊り上げられて痛そうですわ、それに、恥ずかしい……。
 全裸で後ろ手縛りにされ、そのままM字開脚で鴨居に吊るされている女の姿に、ミドリは顔を背けた。
「ともかく、まず、宮園の屋敷を張り込んでみるか」
 羽振りのいい宮園から前金もたっぷり受け取ってあるし、加賀美は、久しぶりの仕事にウキウキしながら革靴を磨き始めたのだった。

 さて、宮園の屋敷から聞こえてくるチェンバロは、宮園の妻、美津子が弾いているものだ。曲はバッハのInventionなのだが、音楽にうとい加賀美には、そこまでは聞き分けられなかった。これが毎日の日課で、その後、夕飯の材料を買いに出かける以外、美津子が外出することはなかった。
 しかしある日、美津子が珍しく、違った方面に外出した。加賀美が来た方向、つまり、省線の御徒町駅に向かって歩いて行ったのだ。加賀美は急いで、あとを追いかけた。美津子は慣れた様子で切符を買い求めて改札を通ると、ホームに続く階段を上っていく。美津子は丁度そこに止まっていた電車に乗り込んだので、加賀美も急いで、同じ列車に飛び乗った。
 美津子はすました顔で、次の上野駅に降り立つと、公園口の改札から出、右手の細い坂道をどんどんと登っていく。そして、坂の途中を左に折れると、木が茂る小道に入って行った。すこし間合いを取っていた加賀美も、美津子の後を追ってその小道に入ると、そこに一軒の家が建っていた。門脇の柱に「木曜荘」という、板に墨書した看板がかけられている。
(連れ込み旅館か?)と加賀美は思ったが、少し開けられた門扉から入って玄関まで来ても、その戸は固く閉ざされているようで、客を迎えるようには思えない。庭には躑躅の花が咲き乱れている。加賀美はとりあえず、その出来事を宮園に報告することにし、その場を後にしたのだった。

続く

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