ホーム>”マゾ奴隷調教”とは?


”マゾ奴隷調教”とは?

 SMについて

 マゾ奴隷調教、という言葉を説明する前に、僕のSMに対する考え方について書いてみようと思います。

 まず、僕にとってのSMとは、小説や、映画、演劇などと同様に、現実世界から離れて到達する、別世界での遊びです。個人が現実世界でどのような役割を持っているにせよ、いったんそれを取り払ったうえで、ある一定の取り決めにしたがって遊ぶものだと思います。一定の取り決めとは、例えばプレイに使われる道具や、かりそめの主従関係などを意味します。

 次にSMとは、マゾヒストの側から言えば、「深い快楽」を得るための手続きだという気がします。ここで言う、深い快楽とは、羞恥の快楽、苦痛の快楽、自分をすべてさらけだした時の快楽、あるいはその3つが混じりあったような快楽のことです。
 これは、一般的にすぐにイメージされる、性の快楽とは異なります。性の快楽というものは、普通の人なら誰でも味わえる、肉体的感覚が多くを占める快楽だと思いますが、羞恥の快楽、苦痛の快楽、自分をすべてさらけだした時の快楽、というものは、自分の肉体的感覚を、思考で変換させてはじめて生まれるのです。すなわち、羞恥や苦痛を材料として、自分の頭の中で、それらを快楽へと作り上げていくのです。この快楽を味わうという体験は、とても魅力的なことです。なにしろ、自分のイメージ次第で、得られる快楽の質は限りなく高められるのですから…。

 例えば、羞恥の快楽を例に取ってみます。あなたが、裸のままおしっこをして、その姿を誰かに見られているとしましょう。ごく一般の人にとって、それは大変な羞恥です。とても快楽と結びつくものではありません。しかし、もしあなたと、あなたを見ている人が、一つのSMプレイ、という世界に参加していたならどうでしょうか?
 その世界では、あなたは、例えば「裸でおしっこをするのを見られて感じてしまう、イヤらしい女の子」であり、見ている人は「そのイヤらしい女の子を調教している御主人様」なのです。そう考えた時に、裸で誰かに見られながらおしっこをする行為は、大変な羞恥から、大変な快楽へと変わっていくのです。あるいは、あなたがうまくコントロールすれば、大変な羞恥を感じながら、大変な快楽を得ることさえ可能になるのです。

 しかし、このような快楽は、誰にでも味わえる種類のものではありません。快楽を得られるように思考をコントロールするという作業は、慣れてない人にはとても面倒で、そういったことに関心を持っている人にしかできないからです。全ての人が、おしっこを見られて感じてしまう訳ではないでしょう。この快楽を味わう能力がある人がすなわち、マゾヒストなのです。

 一方、サディストにとってのSMの快楽とは、上にあげた3つの快楽を、マゾヒストが十分に得られるようにするためのSM世界を作り上げることであると、僕は考えています。マゾヒストに比べて、快楽が少ないように感じられますが、そうではありません。サディストとは、そのSM世界の創造主であり、支配者なのです。マゾヒストの無限の快楽を引き出せる世界を、ひとりで自由にあやつるという行為は、サディストの欲求を完璧に満たすものとなるのです。

 ここで一つの疑問が浮かんできます。普通の性の快楽を簡単に味わえるのに、わざわざSMプレイを好む人がいるのはなぜなのでしょうか?
 その理由の一つには、普通の性の快楽をあまり味わえない、あるいは、普通の性の快楽を味わう前に、SMの快楽を知ってしまった場合があると思います。その場合、その人達にとっては、SMの快楽が性の快楽に匹敵する大切なものとなっているので、それを求めるのは当然のことでしょう。
 次は、良く見られるのですが、性の快楽をより大きいものにするためです。いわゆるソフトSMなど、SM的行為を付加した性交渉を行なうことによって、性の快楽自体も増幅されます。

 もう一つは、このSMの快楽というものが、背徳的だということです。道徳に縛られた社会生活を営むわれわれ人間には、非道徳的な事、すなわち背徳的な行為を行ないたいという欲求が、少なからずあります。おしっこをして感じてしまうことは、社会的に言えば変態です。しかし、そういう変態的快楽を味わうことによって、あなたは背徳的な行為を行ないたいという欲求も、同時に満たすことができるのです。

 このようなことを考えていくと、僕にとってのSMとは、個人が現実世界での役割を取り払い、深い快楽を得るための遊びであり、同時に背徳的な欲求を満たす手段である、と言えるでしょう。

次のページへ

戻る